それは白いご飯のようなものだ

WebLab.ota
http://d.hatena.ne.jp/n_euler666/20071110/1194699124
より

こういった擁護の仕方は良く見かける.例えば,ライトノベルがパクリパクラレの関係や,文章がむちゃくちゃだとか,台詞がやたらと多いとか言われたときの言い分がそれだ.(三銃士とか昔の娯楽小説も台詞が延々と続いたりしてるし,キャラを立てることにしか意識が向いていない作品が多いし,紫式部もパクリパクラレの…うんぬんかんぬん)

…だから現代でやってもいいし,そういった作品が今評価されることが正しい…のだろうか?

極論してしまえば,二本足で歩いたり,道具を使うことを今やって評価してくれ,と言っているようなものではないのか.何万年も昔,それはすごいことだったかも知れないし,その凄さは現代であっても評価されるだろうけれど,今やったからといって評価できることなのだろうか?

いわゆる芸術や学問の枠組みで考えるから、おかしなことになる。
例えば、それは「白いごはん」のようなものなのですよ。


白いごはんを毎日食べても飽きないように、定型のフォーマットに沿った娯楽だって、よくできているものは、本当に飽きない。おいしいご飯を炊いてくれる人がありがたいように、そういう完成度の高い娯楽を提供してくれる人はありがたい。
もちろん「和食以外にも色々食べると世界が広がるよ」というのはあっていいけど、「三度に一度は、米の飯だよね〜」という心根と対立するものではないだろう。


ご飯のレシピがずっと変わってないことは、ご飯がおいしくて毎日食べたいことと何の矛盾もしないのですよ。


そして、おいしいご飯を、心を込めて炊く、というのは、これがなかなか奥が深いものなのですよ*1

*1:ほんとに白米だけしか食べないと栄養が偏るよーとかの意見はあっていいと思うが、「ごはんなんて進歩も個性もない!」とか言ってると、言葉が届かないと思うのだ