グランサーとFate

もう一人の自分との戦い

お話の作り方として、あるテーマを巡って、主人公と対立者が戦い合うという場合がある。
例えば、正義というテーマがあって、主人公と対立者(敵あるいはライバル)が、それぞれの善悪観を持ち、対立するわけだ。


通常、主人公と対立者が議論することで、テーマが展開されてゆく。そのためには、お互いの言い分は、対立していながらも、噛み合っている必要がある。
「命は大切だから人殺しはよくない」「命は大切だけど、少数を殺すことで、多くの人命を救えるとしたら?」、とかね。


結果、主人公と対立者は、議論が深まるほどに互いを共感する必然性がある。
逆に言うと、主人公と対立者は、性格的に、似ている必然性がある。


黄金パターンとしては、主人公は経験の少ない理想主義者で、対立者は昔は主人公に似た、理想気質だったのが、悲惨な事故、事件にあって、冷徹なリアリストとして生まれ変わったというものだ。


この主人公とよく似た対立者、という必然性を表すものに、古くからあるのは、父親が敵というもの。
ファンタジーなら、人間の心の闇だし、これが時間テーマ、並行世界テーマなら、「未来の/もう一人の主人公」というパターンとなる。

必然性の踏襲

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090215/p1

 グーグル様におすがりして調べてみても、ほとんど明示的な指摘がないのだが、『Fate/stay night』は長谷川裕一の作品、特に『クロノアイズ』『クロノアイズ・グランサー』のパクリ――というと失礼なのでオマージュとしてみることができる。(前後関係ははっきりしている。『グランサー』連載終了は2003年であり、『Fate/stay night』のリリースは2004年だ。)

長谷川裕一は大好きだし、グランサーも読んでいるが、二つの作品の類似は、単に、同じ必然性の踏襲に思える。


並行世界、時間旅行のあるストーリーで、ラスボス/ライバルが、絶望した未来の自分だった、という話は、誰でもいつか考えつく一般性のあるもので、グランサーがオリジナルではないだろう。
ぱっと思いつくだけで、ウラシマンとかね。

その他の必然性

 また主人公自身の性格も、少なくとも表面的には似通っている。士郎にせよタイキにせよ(そしてその他の長谷川ヒーローたちにせよ)、一面マッチョで、たとえ自分よりもはるかに強くあっても「女性は守ってあげるべきもの」と思い込んでいる。そのくせ普通の意味でのマチスモからは遠く、素直に自分より優れた能力を持つ女性のリーダーシップを受け入れ従う。そしていずれも「正義の味方」たらんとする熱血漢である。

 ここに上げられた性格は、完全に必然性である。


 まず正義というテーマが強い作品なら、正義の味方を目指す熱血漢であるのは必然だ。
 また、強い女性が登場して戦う世界観である限り、女性を受け入れる性格は、これも必然だ。
 なぜなら、女性が弱くて男が戦う世界観ならマチスモにも一定の説得力が出るが、強い女性がガンガン戦う世界観であるなら、マチスモは単に現実を見れない無神経なバカとなり共感できないからだ。
 一方、恋愛要素がある作品で、いかにヒロインが強いからといって、ヒロインを全然守ろうとしない主人公も無理がある。それでは、読者の共感を呼ばないし恋愛にならない。


 必然的に、ヒーロータイプの主人公は、女性を守ってあげる男気があるが、マチスモというほどじゃない熱血漢が主人公となる。
 必然性がある証左としては、このタイプの主人公がグランサー、Fate以外にも沢山あるということだ。戦闘少女がヒロインでいるタイプだと、ほとんどデフォではないだろうか。


 というわけで、両者の比較、批評は面白いと思うが、Fateがグランサーのパクりとか、また、「知らずに同じことをする方が恥ずかしい」というのは、ちょっと勇み足ではないかと思う。
 Atraxiaがビューティフルドリーマーのパクリというのも同じ。

物語とテーマ性

 さて、以上のように見るならば、『Fate/stay night』は物語としては、発想源としての『クロノアイズ』連作よりも後退していると言わざるを得ない。なぜそうなってしまったのか? はまた別の問題であるが。

 さて小学生が中学生に成長する話は、小学生が高校生に成長する話に比べて後退している、と、言ったら、笑い話だろう。
 では、あるテーマを、哲学的に、より深く突き詰めたことをもって、同テーマの別作品を「後退している」と主張するのは、どういう根拠があるのだろうか。


 全否定するわけじゃないんだけど、テーマ性を巡る議論で、よくテーマに関しては「つきつめてるほうがエラい」的な話が素朴に語られることには、ちょっと違和感がある。