ポジション取りのくだらなさ

名声満足ゲーム

判断において一定の専門知識が必要なジャンルがあるとする。
そこにおいて相互に矛盾する説があって、現状の自分では、どちらを取るべきか簡単には判断できないとする。


正しいほうについて、自分が正しいことが証明された場合は、一定の名声や満足を得る。間違ったほうについて、否定された場合は、同様に不利益を被る。
利益、不利益は、その議論に関わった長さに比例する。
さて、この時、どんな戦法が有効か?


自分が正しいと思う側について正面から論陣を張った場合、成功すれば大きな利益を得られるが、間違った場合は、マイナスが大きい。


安全に利益を得ようとするのなら、「関わった議論の長さ」を最大にしつつ、かつ、旗色次第で、どっちの側にも飛び移れるようにしておくのが賢いだろう。


これが、つまり、中立、相対化タイプだ。
「どっちでもありえる」「どっちでもいえる」という立場で、両側に軽く足をおきつつ、議論に関わる長さを大きくしておく。その時の風向き次第で、「色々いったけど、もちろん、この場合の一個の視点として、現実的に、この立場を支持することは当然だろう」と言い張れるポジションだ*1


コストとリスクを減らして利益を上げようというなら、まともな議論を他人にさせつつ、既成事実を築いて、その結果だけ利用するという戦略が有効だ。

風見鶏は貢献しない

http://d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall/20080107/p1
何が言いたいかというと、このへんを読んだ感想*2


「論争傍観者」は、上記の理屈にそって、自己の利益を最大化しているのであるなぁ、というわけだ。


まぁ人間、誰かに誉められたり優越感を感じたりするのが全くないと、生きるのがつらいから、名声満足ゲーム自体は否定しないけど、上記の戦法自体は、大変に見苦しいものである、というのは言っておきたい。
なぜなら、この方法で得られた名声/満足というのは、誰かの労力に寄生し、それに害を与えることで成り立っており、何にも貢献していないからだ。


逆に、名声、満足という価値基準を排除した場合、最善手は全く変わる。


自分の間違いや無知を指摘されにくいような文章を書くのではなく、無知や間違いも含めた、ありのままの理解を、書こうとすればいい。そうすれば、文句言われて凹むかもしれないが、その過程で得られる知識は大きくなるだろう。そのことをフィードバックすれば、自分と同じ程度の知識の人への道しるべになるだろう。
自分に対しても他人に対しても利益がある行動だ。


もちろん、常にそうなるとは限らない。誠実に試行錯誤し続けていても、盛大に間違った方向にいったり、周りに迷惑かけまくったりする可能性はあるだろう。
とはいえ、取り返しのつかないことにならない限りは、間違った過程も過程として意味がある。


専門家や権威を参照することはできるが、自分の責任は自分でしか取れない。だから、自分の責任で発言するというのは、大変に恐くて不安なことだ。
であるならば、自分の知識や理解が半端であることを明示して、謙虚な態度を心がけるのがいい。
揚げ足取られないことだけを目的にして、中立を装って、上から物を言うのは、本人のためにも周りのためにもならない、というのを確認しておきたい。

*1:さらにいうなら、名声を最大にするためには、議論に永遠に決着がつかないことが望ましい。どちらかの結論が出そうになったら、混ぜっ返すことで、より長期間の利益が得られることになる

*2:立場を明確にするために書いておくと、私は南京虐殺と呼べる事件はあったと理解している。上記のモデルでは、相互に矛盾する説を両方とも対等に扱っているが、これは議論を一般化するための単純化であって、南京事件の否定論と肯定論を対等に扱う必要はどこにもないとも考えている