ちゃんと作り込もう

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20071219/p1
まぁネタって書いてるからわかっちゃいるんだろうけど、真に受ける人もいるかもしれないし。


アイマスは、育成シミュレーションであり、普通のギャルゲと同じく、会話イベントやストーリーが存在する。
ニコ動界隈で、ユーザーがキャラを追加した部分もあるが、基本は、ゲーム中に描き込まれたキャラクターがあってこそ、である。
その点、そうしたストーリーを意図的に排除した伊達杏子とは比較できない。
im@sMADがブレイクした理由としては、同様に本当に丁寧に描き込まれた表情や、各種モーションがある。これも(こちらは技術の進歩の問題だが)伊達杏子にはなかったものだ。
抽象性を持たせて作り込まないことで、ユーザー主導を狙って失敗したのが伊達杏子である、と言えよう。


ユーザー主導のコンテンツといえど、臨界点に達するには、相応に作り込まれたものが必要、という当然の点を確認しておきたい。
問題は、何を作り込んで何を残すか、だ。


人がデフォルメキャラにこそ感情移入する理由については、スコット・マクラウドの「マンガ学」で一般化して解説されていたなぁ。

 ところで、アイマス関連での突っ込みは想定の範囲内なのですが、誰もぼくのゆがんだ「ときメモ」観を修正してやろうとはお思いにならんのでしょうか。「藤崎詩織は萌えキャラでもアイドルでもない、ただの凶悪モンスターだ!」で本当にいいのでしょうか。

釣られてる気もするが、一応。


ときメモ」の頃は、まだ萌えが市民権を得ていなかった。
硬派ゲーマー=漢=システムを評価
軟派ゲーマー=ダメ人間=おんなのことかを評価
みたいな対立が気分的にあった。
そこにおいて、ゲーム部分と女の子部分が見事に融合した「ときメモ」というゲームを得て、硬派ゲーマーは、様々に葛藤した。


あるいはそれは、硬派ゲーマーの自分が、女の子を可愛いと思っていいのか。それは堕落ではないのかという葛藤だった。
あるいはそれは、「ときメモ」というソフトが、このまま消えるのは、あまりにも、もったいないと思い、どうすれば、生存させられるかという葛藤だった。
だから、普段軽蔑しているギャルゲーマーの歓心を引くべく、頑張った。
だから、ギャルゲーというジャンルに鼻も引っかけないゲーマーに、どうやれば、それがゲームとして素晴らしいかを伝えようとした。
単純な一本道ストーリーを提供するだけの紙芝居系とは違い*1、無数のイベントが有機的に連動しているシステムの感動を、どう語ればいいか、というのもある。


そんなこんなの葛藤があって、ときメモを、敢えてキャラゲー以外の観点から語る必要があったわけです。多分に混乱した議論が色々残ってるのはそういうことです。


だけどまぁ落ち着いて考えれば「ときメモ」が面白いのは、女の子が可愛いからなのは当たり前の話で、本来は、否定するようなことじゃありません。

*1:それはそれで奥が深いんだが、そうした硬派ゲーマーの求めるゲーム性と違うのも確か