オリジナリティと新鮮さ

様々な作品が「○○のパクり」だとか、あるいは「オリジナリティあふれる」と言われたりする。
二軸で分析してみよう。
「必然性の開拓」と「新鮮さ」だ。
「必然性の開拓」は創作に。
「新鮮さ」は、商品価値に関連する。

必然性の開拓

オリジナリティ=誰もやってなかったことをやる、という理解がある。
だが単に、本当に単に、「他の人がやらないこと」をやるだけでは、なかなかオリジナリティとは認めがたい。いやオリジナリティなのかもしれないが、そういうオリジナリティは忘れ去られる運命にある。
オリジナリティとして認知されるのは、特定の表現が、人の心を大きく揺さぶる場合だ*1


さて、創作というのを、読者の感情や理性、心を動かす手段として捉えた場合、様々な表現は、心を動かすための技術と考えられる。単純化していうなら、例えば、「読者を泣かせる」という目的のために、「難病の女の子がけなげに頑張る」という表現と、それに関連する技術があるわけだ。


「難病の女の子」パターンを分析すると、以下のような必然性がある、と、言えるだろう。
「読者に悲しいという感情を与える」←「悲しさの例としての人の死」←「死を意識させたまま展開を引っ張るための難病(急に交通事故ってのより、じわじわ描ける)」←「死んで欲しくない人としての女の子(齢97のおじいちゃんよりは、少女のほうがウケをとりやすい)」。


もちろん「難病の女の子」は使い古された表現だが、考えてみれば、歴史のどこかで最初にこれをやった人がいるはずなわけだ。オリジナル、すなわち「起源のもの」である。

必然性=踏襲

さてさて、「難病の女の子」ストーリーには、さきほど書いたように、そうなるべくした必然性がある。
逆に言うと、他の人だって、独立に思いつく可能性がある。また、要素の一個一個に必然性がある故に、無意味に、ずらすとつまらない作品になる。


「闘病もの」を描きたいとしたら「病気の女の子」がデフォなわけだ。深く考えずに、単に「女の子じゃよくあるから、青年にしよう」とかやるのは、作品をつまらなくする。老若男女が感情移入しやすいのが「女の子」なわけで、そういう必然性があって含まれている要素なのだから、必然性を無視して取り替えたら質が落ちるわけだ*2


つまり、一度、開拓された必然性は、後発に踏襲される。
単に人気作にあやかろうとして何も考えずにパクる場合もあるだろうが、「面白い話」を作ろうとした場合、そうした必然性を踏襲するのが重要だからだ。
逆に言うと、だからこそ、「誰も知らなかった新しい必然性」を開拓することは、素晴らしいのだ。

必然性=融合・継承

必然性を無視した作品は、基本的につまらない。だから必然性は踏襲される。一方で、本当に必然性を踏襲するだけで、そっくり同じ話ばかりになれば、それは創作の自殺である。


このジレンマを解決するために、創作者は必然性を組み合わせる。つまり、要素は有限だが、組み合わせは無限にある、というわけだ。


例えば、思春期の少年が生きる意味に悩む、という「思春期アイデンティティ」というモチーフがある。
これを「難病少女」と組み合わせて、「少女の闘病を見て、自分の生きる意味に思いを馳せる思春期の青年」とかするわけだ。もちろん、この組み合わせは、基本中の基本なわけだが。


要素も、単に並べただけでは、意味がない。組み合わせる時には必然性が存在する。
「難病少女」と「思春期アイデンティティ」は「生死の意味の考察」という必然性がある。「難病少女」と「プロジェクトX・新工場開発に賭けた男達の物語」も、例えば、「仕事と家庭の両立」という必然性で、つながるだろう。


結局、「面白い組み合わせ」というのも「必然性の開拓」なわけだ。逆に、どんな要素であっても、さらに一般的な要素の組み合わせとして記述できるわけだから(「難病少女」=「少女」+「死」+「病」)、結局のところ、創作およびオリジナリティというのは全て「必然性の開拓」であると言える。


繰り返す。オリジナリティというのは、無からの要素創造ではない。それは、「必然性の開拓」なのだ。

知識と一般化

さてさて、オリジナリティとは「必然性の開拓」と書いた。では、どこからが「開拓」でどこまでが「踏襲」なのだろうか?


これに関して、はっきりした単純な答えはない。
まず知識の問題がある。
「AとBの要素をつなぐ、Cという必然性」を発見した、と、しよう。過去に、そういう作品が全くなかったかどうか、というのは、検証が難しい。
よくある話で、若い世代が「なんて素晴らしいオリジナリティ!」と言ってる向こうで、年喰った連中が「○○と同じパターンだな」とか嘯いていたりする。


次に、一般化の問題がある。
例えば、「難病少女」について考えてみよう。
細かく言えば、例えば少女の年齢が違えば、ストーリーは変化する。
赤ん坊の場合、幼児の場合、小学生の場合、中学生の場合、高校生の場合。みんな、それぞれ、違う必然性があり、それによって違うドラマが生まれるだろう。もちろん、年齢以外にも数限りない要素がある。
細かく見れば、これらを全部「違う必然性」として見なすこともできる。
一方で、一般化すれば、これは「少女」という必然性のバリエーションである。


よく言われる話だが、「ウェストサイド物語」は「ロミオとジュリエット」の現代版。「プリティ・ウーマン」は「マイ・フェア・レディ」の翻案である。これらは、十分に一般化すれば、同じ要素で構成されている。一方で、それぞれ独自のオリジナリティがある。
舞台の時代設定を変えることで、違う作品が生まれた例である。時代設定以外にも、全く違う設定や、ジャンルから要素を持ってくるのもよく使われる手法である。一度、一般化して分解し、違うジャンルで、再び組み直すことで、普通に見れば全く違う作品に仕上がることがある。


それをオリジナリティがない、と、言っていくと、この世にオリジナリティというのは無くなる。


どんな作品も十分に一般化すれば、必ず、何かの踏襲である、と言い替えることもできよう。
逆に、どんな作品も十分に細かく見れば、(完全なコピペでない限り)必ずオリジナルの部分がある。


ま、そのへんは、主観も大きいけど、十分に主観が一致するところで、無視できない客観性というのもある。創作的な評価を心がけた上で、みんなが「新しい」と思う作品はあり、また、みんなが「いやいやこれはパクりでしょ」という作品もある、ということで一つ。

読者が批判するパクり、作家が悩むオリジナリティ

多くの読者は、ある作品と別の作品が、必然性を共有している、というだけで、「パクり」と批判することが多い。これは間違いだ。なぜなら、必然性の共有自体が否定されたら、物語というのは作りようがないからだ。なんでも奇をてらえばいいというものではないのだ。


たいていの場合、そういう批判は「AはBのパクり」というが、BもAも同じ必然性を共有しているに過ぎず、系譜で言うなら、もっと昔の作品にいくらでも遡れることが多い。
ある作品にオリジナリティがないとしたら、その全部が、既存の必然性で出来ている、という話をしなければいけない。たまたま、必然性の一部が他の作品とかぶっている、というのは、それこそ必然性であり、パクりではない。



一方で、作家は作家で、オリジナリティに悩むことがある。
先ほど書いたとおり、必然性の開拓こそが、オリジナリティである。だが、どこまでが踏襲でおこまでが開拓かは、主観的なものである。
駆け出しの作家は「これとこれを組み合わせるなんて、俺、天才じゃね!?」とよく錯覚する(笑)。だがより一般化して要素と必然性を分析すれば、それは新しいものでもなんでもない。
逆に、良い作家ほど、必然性の分析が出来ているから、真に新鮮な組み合わせを見つけても「これとこれを組み合わせるなんて当たり前の話で、オリジナルでもなんでもない」と悩みがちだったりする。
錯覚でもなんでもいいから、自分の才能を信じ、物を作り続けられることが本当は望ましい。
だが、さきほどのパクり非難も含めて、本当に才能のある作家が、萎縮してしまう、ということもある。

新鮮さと商品価値

とはいえ「AはBのパクり」という批判にも、一面の価値はある。Aを見た時、Bにそっくり、という印象を受けたなら、Aの評価が下がるのは仕方がない。
創作という観点からすれば、それは評価としては中立でないかもしれないが、そもそも受け手は別に中立である必要も、創作の立場に立つ必要もない。
どういう理由であろうが、つまらんものはつまらんのだし、その感想は重要なのだ。


ただ、これを「パクり」というから、問題になるのである。「新鮮さ」と考えたら、どうだろうか?
新鮮さ、あるいは目新しさである。
カレーを食べた直後に、またカレーが出てきたら、うまいとは思わないだろう。料理を食べる順番は重要だ。一方でこの場合、「連続でカレーを食べたらうんざりした」というのは、それぞれのカレーの出来の良さとは違う次元の評価であることも押さえる必要がある。
「和風カレーのあとにタイカレーが来て、うんざりした」という感想は意味がある。
でも「タイカレーは和風カレーのパクりだ! スパイス使ってるし辛いし!」というのは、まぁ、的はずれだろう。


もちろんマーケティングレベルで、特定の作品が売れてる時に、二匹目の泥鰌を狙った作品とかは、そういう批判もありうる。「最近、どこいってもカレーしか売ってないじゃん!」というわけだ。
一方で、「俺は、たまたま昨日カレーを食べたんだが、今日食べたのもカレーだった」というのは(繰り返すが感想としては意味があるが)、創作のレベルでは対処しにくい。そゆこともあるよね、としか言いようがない。


逆もある。創作的に見るとオリジナリティは少なめだが、目新しいと受け止められる場合はある。あるジャンルの定番が、それを知らない別の層に受けたり、昔流行ったものが忘れられた後に、同じパターンのものが現れて人気を博したりする*3
それが良い悪いではなくて、特にプロとして物を作る場合、例えばそれが偶然の一致だろうと創作的な必然だろうと「新鮮さ」が無くて受けなければ負けであり、逆に、今の客に何が「新鮮」なのかというのを押さえるのは必須の技能だ。
「創作的オリジナリティ」と「市場における新鮮さ」は、違う軸であるという話で、どっちが上下という話ではない。

てなわけで結論

オリジナリティとは、必然性の開拓である。
必然性の共有は、パクりではない。
感想としての「目新しさがない」というのと、創作上の「パクりである」というのは別物である。

*1:より大勢の心を大きく揺さぶる場合もあれば、特定の層にピンポイントでヒットする場合もある。この議論では、両者を区別しない。

*2:逆に必然性を意識して要素を変えるのは創作の基本である。例えば、女性が対象なので「青年」にするとか、人生の含蓄を描きたいから「お爺ちゃん」にするとか。いずれにせよ、極端に単純化した話をしてるのでツッコミはご勘弁を。本当に難病物の作品を作るとしたら、もっともっとたくさんの要素を分析する必要がある

*3:また先にも書いたが、昔の物をリファインしたり、別のジャンルから持ってくる、というのも、それはそれで必然性の開拓であり、オリジナリティである