Fateについての二、三のこと

本を読むということ

 これに対して『Fate/stay night』の士郎の場合には、その辺りがあいまいである。そこでも私的な幸福と正義の追求との間の両立可能性は認められてはいるのだが、どちらかというとその捉え方は「トレードオフ」に強調点を置いたものである。私的な幸福をある程度は追求してもよいとしても、それはあくまでも正義の追求とは対立するものである、という側面において語られており、「ある程度私的に幸福でなければ、生身の人間には正義の追求はきつすぎる」という視点は明示されることはない。

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090215/p1
うん、確かに、そうだ。明示はされていない。


ところで。


お話において、ある人間が、ある努力をして、失敗したとする。
それは、その作者が、そうした努力は間違っていると認めたことになるのだろうか。
あるいは、努力は正しいが、した人間や目的に問題がある、ということになるのだろうか。
あるいは、努力をしたにも関わらず失敗が起きるという無情さを言いたいのだろうか。
あるいは、否定でも悲劇でもなく、単に、「そういうものだ」ということを言いたいのだろうか。


もちろん、物語としての「定石」「手法」は厳として存在する。あるテーマを描きたいから、ある手法を使って、ある感情を強調する。故に、ある手法を使ったことから、あるテーマを作者の意図として推定できる。それについては、それなりに客観的に語ることができる。


とはいえ。


語りたいことが一意に定まっているのであれば、物語という手法を採ることもない。
一意に定まったテーマを共感づける手段として物語というメディアを選ぶ人もいるかもしれないが、多くの場合、「語りたいこと」は一意に定まっていない。どこかたゆたっている。あるいは、その揺らぎが、物語の「味」だとも言える。


お話、というのは、結局、コミュニケーションだ。
作者がいて、お話がいて、読者がいて、その関係にあって意味を持つ。
読者いてこその物語であり、客観的、一意な読解など存在しないし、する必要もない。


では、物語について述べるというのは何か?
客観的にプロットと手法を解析して、方向性を割り出し、確固とした「テーマ」を導出するのが良いのか?
それは何か違う気がする。
では逆に、感情の赴くままに、当人にしか意味のない、我田引水、自己陶酔な「感想」を述べればいいのか?
それもそれでおかしい気がする。


私の面白さと、あなたの面白さ(あるいはつまらなさ)は、違ってはいるけれど、つながってもいる。


だから、「客観」を名乗って、唯一の読解であるかのように押しつける必要はない。
さりとて、自分の読解を他人に伝える努力を怠ってはいけない。
なによりも、責任を意識することだ。
それは自分が、自分の人格と責任において、この読解を選ぶ、という意志だ。
つけくわえるなら、その事実……無数の読みが成立しうる中で、自分の読みを示すことが、自己の人格を表すということへの、畏れだろう。


とまぁ、前置きが長くなった。稲葉氏の読みが、ある意味、的確、明確すぎたので、自分の中の違和感を整理したところ、上記の文章となった。
感想、批評の意義としては稚拙で初歩的な話と思うが、自己の覚え書きとして記す。
もちろん稲葉氏が上記のような責任を意識されていないということではない(氏が評論家である以上、意識されているだろう)。

理想を抱いて溺れ死ね

というわけでtoward-endとしての読みを書こう。


思うに、Fateは、青年の物語だ。
青年の物語であるということは、完結していないということだ。
士郎しかり、凛しかり、無限の時間を生きるエミヤですら、青年だ。


彼らは悩み、決断を下すが、そのどれもが「最終」ではない。青年が生きる途中で下した決断だ。それらは今後変化しうるし、するだろう。


士郎という青年は、確かに、悪がなければ正義が成立しないと勘違いしている。個人の幸せと公の幸せを対立概念として偏った捉え方をしている。Fateという物語の中において、稲葉氏が指摘しているように、それらが両立する、むしろする必要がある、という視点は「明示」されない。それは変化の兆しを見せるが、兆しにとどまっている。


「明示」された時、それは大人の物語になる。
長谷川作品は少年の物語であるが、その少年達は、常識ある大人に支えられている。常識を持つ大人の背中を見て育った少年は、大人の常識に、少年の熱情を重ねて飛翔してゆく。長谷川作品は、本当に大好きで大好きなんだけど、さておいて。


Fateは、そうではない。
これは悩める青年と、魔術師なんぞやっている大人のなり損ないが、勘違いに勘違いを重ねて七転八倒する物語だ。
そこにおいて青年は、一時、何かを掴む。けれど、その「何か」は最終的なものではない。士郎が得た答えは、限定された状況の暫定的なものに過ぎず、本人でさえ、納得しきれていない。


──少なくとも、そのことは「明示」されていた、と、思うのだ。


物語の最後に至っても、士郎は達観した大人にはなっていない。勘違いを一杯残しており、これからも間違うだろう。
でも、青年期とは、そういうものではないだろうか。
ある世代の読者が共感しながら、自分に引きつけて、士郎の「先」を考えることに意味があるんじゃないか。二次創作の作者が、それぞれ独自のエンドを作ろうとするのは、作品の傷なのか成果なのか。


※逆に、マップスの二次創作を作ろうとして、テーマに対する反論から入るのは極めて難しいと思う。


このような不完全であることを許容して補助線を引く読みは、まぁ贔屓の引き倒しになりやすい。というか、多分、なってるだろうという自覚はある。


ある上で、私にとっては、このような読み方を選ぶ。

Fate/Zeroも面白いよ

*『Fate/stay night』における――作者の、とは言うまい、士郎を取り巻く大人たち(ことに切継と言峰)が口にする――非常に幼稚で浅薄で子供だましの正義論について付言する。そこでは、正義と幸福、公益と私益をいたずらに対立させられていることだけが問題なのではない。全般的にそこで語られているのはゼロサム的な世界観である。「正義の味方には倒すべき悪が必要だ」「誰かを利するには誰かを犠牲にせねばならない」等々。そうではなく、極力ゼロサム的な状況を作らないようにすることこそがずっと重要である。しかしそのことは作中でついには語られない。ただわずかな予感のみがある――士郎が料理上手であること。そして魔術においても「創る人」であること。

もし読まれていなかったらFate/Zeroも参照のこと。前回の聖杯戦争の顛末を描いたこの作品では、切嗣の、幼稚で浅薄で子供だましの正義論が最後に呼んだ悲喜劇は、徹底的だ。
「理想の王」を願うセイバーの、小気味よいほどの、こきおろされっぷりも必見。

こちらの作者は虚淵玄だが、Fate本編を大きく補完しているし、Hollow本編にFate/Zeroの設定が数多く丁寧に取り入れていることから、奈須きのことしてもZeroを本編の一部として認めている位置づけと思われる。