オタクを推論する

例えば、オタクという集団があるとして。
オタクを良く知らない人が、乏しい情報から組み立てたオタク像は、基本的に歪むものでしょう。いわゆる「偏見に満ちた」オタク像となる。ピザでキモくて人付き合いが下手で〜となることもあるだろう。


一方で、自分がオタクという自覚を持っている人間は、また別のオタク像を持っている。これはこれで情報が偏る。


誰しもオタクに関する「完全な情報」というのは持っていない。手持ちの情報で考えるしかなく、それはどうしても偏見が入る。また、人間は自分の推論に都合の良いように情報を取捨選択する。オタクがキモいと思う人は、オタクがキモい証拠を推論に取り入れ、そうでない情報は排除しがちになる。オタクがかっこいいと思う人は、その逆をする。複数の矛盾する情報を際限なく受け入れると、キャパシティを越えてしまうため、一定の理論で情報を取捨選択をせざるを得ないからだ。


そこにおいてどうすればいいかといえば、自分の推論が間違っている可能性を、なるべく受け入れようとする姿勢だろう。
オタクが好きならばこそ、オタクに都合の悪い情報に注目する。
オタクが嫌いならばこそ、オタクを評価する情報に注目する。


偏見は避けられないものであるからこそ、意識的に自分に逆バイアスをかける。その上で自分の持つ情報が不完全であることを意識し、謙虚な判断を行おうとする。
すべてはそこからだと思うのだ。