ヒューリスティックな話

そもそも、私たちは社会で生きていく中で、意思決定を早めるために推論(ヒューリスティック)を利用することが非常に多いです。学校での試験の問題みたいに決まった答えがあるわけではない問題に対して、ヒューリスティックな手段は有用で不可欠です。しかし、ヒューリスティックな手法は、そもそもバイアスと裏表です。偏見を全く持たずに生きていくことはできないし、もし仮にそんな人(ヒューリスティックな手法を放棄した人)がいたとしたら、無知で無能でクズ。アホでバカ。低脳ワーキングプアだと私は思います。

ですから、差別・偏見が絶対悪であるとして、無条件に批判していいという考えや、議論すら許さないという姿勢は危険であると思っています。もちろん、逆に「表現の自由」を絶対善であるとするのも危険と思いますよ。最後はバランス感覚ですよね。

http://d.hatena.ne.jp/andalusia/comment?date=20071026#c


ムチャクチャですがな。
人間というのは推論する動物で、その際には、差別や偏見が混じらざるを得ない。それは確かです。
でも、だから差別や偏見を肯定する、というのは話が逆でしょうに。


人間が物を考える過程で差別や偏見が混じらざるを得ないからこそ、固定観念に陥らず、常に新しい情報を入れて、差別や偏見を減らすべく努力していこう、という話でしょ。


人間は差別や偏見から自由になれない生き物だから、差別や偏見を持った人間を簡単に断罪していいか、というと、そうではない。でも、差別や偏見それ自体を指摘、批判するのは必要だし、何の問題もない。


id:andaulsiaさんは、「差別・偏見が絶対悪であるとして、無条件に批判していいという考えや、議論すら許さないという姿勢は危険であると思っています」という。「絶対悪」として「議論すら許さない」という姿勢は、全くもって危険だと思いますが、それを言うなら、どんなこともで「絶対悪」として「議論さえ許さない」のは危険だ。
ただ、「極限状況において○○はよくない」という理由で、○○を擁護しようとするのは、これは詭弁に過ぎない。


今回のニコ動で、韓国人を罵倒したバカや、それをたしなめつつ、偏見を丸出しにしていたバカは、そうした極限状態だっただろうか? 単にどちらも救いようがないバカだっただろう。バカであることが彼らの罪か、というのは置いておくとして、その思考のバイアス自体は批判の対象になるだろう。


結局のところ、id:andaulsiaさんは、一体、何を、どういう議論を擁護したいのだろうか?