ヒューリスティックと合理性

合理的な推論があって、それは間接的に差別を含むが、合理的であるが故に避けられない、という理屈がある。


二つ問題がある。
一つは、その推論は、本当に合理的か、ということだ。

もっと言うなら、中国に工場を建てている日本企業で、中国の工場では入出場時に持ち物検査をしているところは多いと思いますが、これは差別か? イタリア旅行に行く人に「すりが多いから貴重品はウエストポーチに入れて身に着けておいたほうがいいよ」と助言するのは差別か? 社員を採用するのに大卒以上を条件とするのは差別か? 私はこれらが悪質な差別とは思いませんが、差別的要素がゼロかというとそうではないと思います。

http://d.hatena.ne.jp/andalusia/20071026
イタリアはスリが多い、という情報は、どこまで確定的な情報だろうか?
その人は本当に統計データを当たったのか。あるいはイタリアに住んだ経験があるのか。
データを調べ、イタリアに住んだとして、それらの情報は本当に信頼に足るものだろうか?
その答えの中には「十分自信がある」から「そういえば、どっかで聞いた程度」まで、様々なグラデーションがあるだろう。99.9%確信していても、残り0.1%の揺らぎもあるだろう。

だからといって、厳密性を重んじたら何も肯定できなくなってしまう。問題は、話者が、そうした部分に自覚的であり、謙虚であった上で、差別を含むかもしれない情報を自分の責任として発話してるか、それとも、そうした部分に無頓着に発話しているか、だ。
重要なのはそこだろう。


もう一つ。
合理的な行動と倫理的な行動は必ずしも一致しないということだ。
合理的に利己的な行動が常に正しいなら、完全犯罪はまったくもって正しい行動となる。
有用な推論であることは、必ずしも倫理的な行動を意味しない、というのは忘れてはいけない話だ。


そうしたことを忘れた場合、人間は、自分の都合のいいように情報を処理しがちだから、「合理的推論」の名の下に、大量の偏見が増殖することになる。