ジャンルが成長すべきという錯覚
少年漫画の場合
例えば、少年漫画というジャンルがある。ジャンプ、サンデー、マガジン、チャンピオンとかを想起してもらおう。
それらの連載作品は、バトル、恋愛、スポーツで、メインの作品がほとんどカバーできる。小学生、中学生が思い描く、自分がなりたいヒーローの形がそこには追求されている。
それを読む内に、「紙の上でヒーローになったつもりで、意味があるのだろうか? フィクションには、単なる願望充足以外の何かがあってもいいんじゃないか?」と思うようになるのは、ある意味、正しいことだろう。
子供の頃、面白かった作品でも、大人になると、幼稚と思える時はある(さらに一周回って、また面白くなったりするがさておいて)。
そうしたら、どうするか?
少年漫画以外の、恋愛スポーツバトル以外の漫画が、この世にはある。
それを探して読めばいいわけだ。
○○は進化がない
言ってみれば、それだけの単純な話なんだが、時折「ジャンプは進化すべきだ」という人がいる。
少年漫画には限界があるから、その先を、というわけだ。
それは違う。読者は少年漫画に飽きる。読者は少年漫画を卒業する。
でも、あらたな小学生や中学生がいて、彼らは少年漫画を必要としている。
ジャンルとしての少年漫画は、だから、存在し続ける。必要とされ続ける。
少年漫画に進歩があるとしたら、ジャンルとしての少年漫画が人気を得つづけるために、その時代、その時代の小学生、中学生にとって面白いことを追求し続けることだろう。
少年漫画に飽きた世代からすれば、それは「進化がない」ように見えるかもしれないが、それは少年漫画以外のところに求めればいい。
ラノベとか萌えとか
ラノベも、基本は、中高生に向けて、中高生の鬱屈やら妄想やら夢やら希望やらに語りかけるものだ。それらが、中高生の範囲から出ていない、という批判は、上と同じ話だ。
疑似恋愛キモいというのは、自由だが、ラノベは疑似恋愛の先を目指して進化すべきだ、という決めつけもまた、勘違いだ。
地動説と天動説
要するに、「○○というジャンルは進化すべきだ」というのは、基本的に、自分を世界の中心に置いた言い分なのだ。「俺は○○に飽きたから、○○は変わるべきだ」という話でしかない。
ジャンルの必要性、存在は、一人のためにあるわけではない、というわけだ。
ジャンルの停滞と進化
少年漫画は少年に合わせて、ラノベは中高生に合わせて、と、書いたが、どのジャンルも、新たな要素を模索しないとマンネリ化して腐る。
例えば少年漫画でありながら、一般的な少年漫画の枠におさまらない作品、さらには少年漫画のテーマを否定するような作品が現れて、そうした作品が刺激となって、新たなブームを築くことが、これまで何度もあった。
そういう意味で、安直な萌えや、マンネリバトルを、そのまま受け入れる必要はない。飽きたところ、つまらないところは、そのように批判すべきだ。
なんだけど、そうして活性化した少年漫画は、やっぱりバトルとかあるだろうし、活性化したラノベには、やっぱり萌えキャラがいるだろう。
あるいは、バトルや萌えキャラでない何かが後継するとしても、それはやっぱり大人から「ガキっぽくて進歩がない」と言われることだろう。
それはそういうものなのだ。