原作物は簡単に作れるという誤解

http://d.hatena.ne.jp/n_euler666/20071210/1197282169
京アニ作品は、原作に忠実に作りすぎてるから、見る側には驚きがないという話。
せっかく媒体が変わるのだから、原作と違う展開を見てみたい、というのは一つの意見ではある。
それはそれとして。

逆に,作品・作家至上主義者たちは,原作どおりに作られたアニメに対して,「二度も同じ内容の作品を見る必要はない.」と切り捨てる.

そういう人は、「作品・作家至上主義」ではない。単に「ストーリーだけ見て、アニメを見ない人」だ。
一個のエピソードをゲームで描くのと、アニメで描くのは、全く異なる。要約したストーリーレベルで同じであっても、それらは全く別の物だ。
アニメを楽しめる人なら、静止絵をTVサイズに動かす、というその過程自体に、無数の驚き、発見、喜びがある。ストーリーであっても、「違う媒体」で「同じ印象」を与える、その技術の一つ一つを見つけ、探し、考えることができる。


一個の作品を違う媒体に移し替えるというのは、信じがたいほど難しいことだ。
過去のアニメで、中途半端にそれをやろうとして、やらかしてしまった例は枚挙にいとまがない。
それを覚えている人なら、京アニが、あまりにも自然に、それを成し遂げているという事実自体に感動できるはずだ。
あまりにも自然だから、あまりにも簡単に見える。
でも、そんなわけはないのだ。


もちろん、そうした細部に気付く必要はない。結果として、見心地がよければいいのだ。
でも、そうしたあまりにも素晴らしいから誰も気付かない細部にこそ注目するのがオタクというものだろう。
それをせず、単に普通に楽しむこともできず、見た目にわかりやすい差異がないことを作家性がない、と、決めつけることこそが、オタクの死だ。

悲しいものだな。素晴らしい作品ほど、巧妙に必然の産物だと見せかける。それを奇跡とも知らず当然のように消費する。さっきの観客のようにな。
──G戦場ヘヴンズドア

G戦場ヘヴンズドア 1集 (IKKI COMICS)

G戦場ヘヴンズドア 1集 (IKKI COMICS)

評論は嫌われる

http://d.hatena.ne.jp/sinden/20071208/1197094201

文学にせよ、ミステリにせよ、ライトノベルにせよ、読者の大半に評論が受け入れられているとは思えません。

同感。
そもそも評論とは何かという話。
読者のためにある文章……つまり特定の本を読む楽しさを増すための文章であれば、それは感想やガイドと言われる。


逆を言えば、評論というのは、必ずしも、本を楽しむことを目的としない。その本の読者のためにあるわけではない。評論は評論のために存在するのだ。
意地悪な言い方をするなら、本をダシにして語るのが評論である、と、言ってもいい。



つまり、評論が好きな人は、必ずしも読者ではない。進化した読者が評論を求めるわけでもない。
対象の本を読むのが好きな人、評論を読むのが好きな人、両方好きな人がいる、というだけだ。
読者でないのに評論が好きな人はいるか? と言われるだろうが、存在する。
わかりやすい話をするなら「恋空」を読まずに現象や又聞きとして評論してる人や、その記事を楽しむ人は結構多い。読まずに評論することの是非はさておき、そうした記事が面白いことがあるのも確かだ。


評論が悪いわけじゃないし有益な評論もあるけれど、評論が出ることをもって成熟とか、でないことをもって、未熟とかする議論は、実は間違っている。


もちろん、ジャンルが煮詰まってくると評論したくなる人が増えるのは確かなので、定着度合いを表すには使えるだろうけど、評論がないこと自体に劣等感を感じる必要は、ない。

初音ミクとプロとアマ

http://mediasabor.jp/2007/11/post_272.html


まず些末な点から。
アッコにおまかせ!」での取り上げられ方は、そもそも、基本的な情報が抜けていた。
初音ミク」を単純に紹介するなら、まずそれが歌を作るためのソフトウェアであり、それを利用した楽曲がネットで多く発表されており、初音ミクのキャラが人気である、という3点になるだろう。
その上での批判ならば、批判として受け止める向きもあるだろうが、実際の番組では、もはや、初音ミクが何をするためのソフトであるかもよく分からない有様だった*1


アッコにおまかせ!」は、さておくとして。それ以外の本文は、だいたい納得できる。


UGCが受ける理由の多くは、UGCであるからという理由。すなわち、隔絶したプロではなく、自分と同じアマチュアが作っているからという「共犯者意識」にあるだろう。そこにおいては、例えば、技量の未熟さが「親近感」として評価されることもある。初音ミクの楽曲も、大半は、その範疇ではある。


ちなみに、この「共犯者意識」「親近感」は、実は、プロやアマ、技量の上下とは関係しない。消費者に「共犯者意識」を持たせるのは宣伝の基本であり、「素人らしさ」を眼目にすえたプロモーションがどれだけ多いかも言う必要はあるまい。
プロであれば、物を売る際に、宣伝が、どれだけ重要かは当然理解しているだろう。


であるからUGCの大半を「素人の内輪受け」とするのは正しい一方で、プロであれば「素人の内輪受け」の怖さも分かっているだろう。そしてもちろん、ごく一部には、プロに匹敵する才能と鍛錬を兼ね備えたアマチュアが納得ゆくまで作り込んだ作品も存在するのだ。


もう一点。
初音ミク」というソフトは、単純に人間のボーカルの代替ではない。それは例えば、CGが、油絵の代替ではないのと同じであり、コンピュータミュージックが生演奏の代替でないのと同じである。


初音ミク」に代表される技術は「人間のボーカルと区別がつかない」方向にも進化するだろうが、「コンピュータにしか歌えない歌」にも進化してゆくだろう。
「人間のボーカル」vs「アマチュアの使う初音ミク」ではなく、「プロの使うボーカロイド」vs「アマチュアの使うボーカロイド」となってゆくことが予想できる。

*1:このへん、トロステーションでの紹介はさすがだった

ラファエロとか好きだからー

http://d.hatena.ne.jp/n_euler666/20071115/1195113996
にて返信が。まず心の叫び。

確かに私も多少絵を描く人間だし,彼らの描く絵にそれぞれ(微妙な)違いがあることは見て取れるし,絵師の判定も結構できると思っている.しかし,その微妙な差を個性とか作家性といったものとして認識できるか?と言われれば,できない.

俺は全然絵を描かない人間ですが、みつみと大槍と中央東口は「微妙な差」ではないと思うなぁ。あなたはエロゲが没個性だという前に、もっとエロゲに触れるべきだと思う。


えー、気を取り直して。

みやま零氏の表現を使うならば,同じエンジン,決められた排気量,定められたプロペラの中で鎬を削っているゲンガーと,宇宙旅行を実現させているスペースシャトルと,地上最速を目指しているF1と,なんであんなものが海に浮かべるのか不思議な豪華客船と…の違いで個性を争っている作家とでは明らかに違うだろう.

そして,前者を主に消費している今のオタクと,後者を主に消費していた昔のオタクとでは,違いがあるだろう…という話である.

みやまさんが言ってるのは、構造の違う「漫画」(全体)と「エロゲ」というフィールドを単純に比較するのは、おかしい、という話です。
そしてeuler_666さんは「昔の漫画」と「今の漫画」の比較はしてないので、その結論は、論拠が全く足りていません。
今の漫画は、別に判子絵で出来てないし、例えば80年代の漫画以上に多様性があると思いますよ。

しかし,美術史については詳しくないが,この均一化・没個性化することが評価されていたのは,個性だとか,自我だとかが”発見”される前の話なんじゃないか?とにかく,評価基準やその背景にある考え方が違うのだから,同じような評価が過去に行われていたからといって,それを現代に持ち込んで通用するとは思えない.(若しくはその評価が現代でも通用することを検証しなくてはならないと思う.)

念のために言っておくと、「均一化・没個性化」自体が評価されてるわけじゃありません。
ラファエロが評価されるのは「心に響く絵」を追求していったら、一定の型に収まったというだけで、どんな絵でも判子絵にすれば受けるというものではないのです。


で、例えば、今でもラファエロの絵は美しいし、シェークスピアは面白いし、第九を聞くと感動する。
それらは別に近代的価値観のせいで無価値になったか、というと、全然そんなことはないですよね。
ほら、現代にも立派に通用するじゃないですか。
そして、それらが今でも面白いとするなら、それらのフォーマットに基づいた作品が受容されても当然でしょう。「個性とか作家性」の観点からすると、それらは二番煎じで没個性かもしれないけれど、だからといって、無価値なわけじゃない。
というかですね。
「個性とか作家性」を最上に置くのはある種の評論家の主張なのであって、それが一般的な価値観になったことは一度たりともないのですよ。

昔のオタクは現代式な評価法で作家や作品を評価しているが,今のオタクは近代以前の感性で作家や作品を評価している

わりと歳喰ったオタクのつもりですが「それはない」と断言しておきます。
昔っから絵柄の流行はありましたし、オタクってのは心が狭く、快楽原則に忠実なものでした。
オタクが少数派だったから、オタクの趣味が先鋭的、個性的に見えただけです。

「面白い」ということ

ツッコミばかりになってきたので整理。何が言いたいかというと要するに「新しいものを評価することは古いものを否定することではない」ということです。


誰かが新しい試みを行い、新しい面白さを発見した時に、それを受容できる心の広さ、アンテナは備えていたいと思うわけですが、だからといって、旧来の作品がつまらなくなるわけじゃないんですよね。


作品の面白さには、一定のフォーマットがあります。例えば、ギリシャ悲劇が現在も面白いように、この面白さのフォーマットには、かなりの時代を超えた普遍性があります。
個性を追求するのは良いのですが、新しいこと、これまでにないことを唯一の価値観とすると、このフォーマットを全否定しちゃいますから、「すごいのかもしれないが、面白いかどうかは微妙」という先鋭的な作品が出来やすいです。逆の話、面白くあろうとすれば、ある程度似通うのは避けられません。


当たり前の話ですが、要するにほどよいバランスが重要なわけで、新たな要素の刺激を持ちつつ、面白さのフォーマットは、伝統的なものをしっかり踏襲、というのが、受ける作品の要素です。


で、オタクというのは、新しい技術が大好きなのと同じくらいに、この伝統的なフォーマットが大好きです*1
評論家的な先鋭性「だけ」を評価するのは、むしろオタクの堕落だと個人的には思っています。

*1:宇宙戦艦ヤマト」のストーリーがアナクロだとか、「トップをねらえ!」もそうだとか、今も昔も戦隊物の人気はあるとか。

今、そこにある多様性

nix in desertisさんからいただいたトラバが面白くて読みふける。
「多様性」は簡単に使えない言葉だと思う
「エロゲ業界は十分「ちょっとズレている作家も養」っている。」というのは、大変に同意。
こうして歴史の事例を見ていると面白い。
新しい現象を理解する時に、過去との比較は大切だと思うのだ。
同じパターンを探して「これと同じじゃん」と決めつけるためではなく、違うとしたら、どの前提が崩れた結果、そうなったのかを理解するためにも。


さてさて。

没個性的なオタクたちに,「もっと才能とか個性を正しく評価できる集団になろうよ」と訴えたかった.

と元記事のid:n_euler666さんは書かれた。


で、今のエロゲ界、ラノベ界には、主流っぽい流れもあり、それを研鑽している人もいれば*1、そういった主流から離れた絵、ストーリーで頑張っている人もいる。
多様性を導きたいなら、まずは、そういう人の才能や個性を評価するのが第一歩だと思うのだ。


私はエロゲンガーにそこまで詳しいわけじゃないけど、例えば、大槍葦人中央東口を見て、みつみ美里と混同する人はいないだろう。野心的な絵を出してる人は他にもたくさんいるはずだ。
今、そこにある多様性を評価せずに、「もっと才能とか個性を正しく評価」することは出来ないと思うのだ。

*1:言うまでもないが、それはつまり競争が激しい中で仕事するわけで大変にすごいことである

歌う仮想人格といえば

時祭イヴで、シャロン・アップルなわけですが。
ロボ/AIが歌う伝統って、どこまで遡れるんだろう?


「サイボーグ・ブルース」には、確か、ブルースを歌うアンドロイドがいた。これが1971年。
人工物の人間性という点では、普遍的なテーマなのでたくさんありそうだけど。さて。

初音ミクについての短い感想

初音ミクは、まぁ、まだまだ赤ん坊である(なにせ発売してから2月とちょいだ)。
世の親というのは、赤ん坊が、はいはいをしただけで、大騒ぎをする。
こっち向いて笑えば「うちの子は天才じゃなかろか」という。親バカというやつである。


初音ミクが世界を変える」というのは、現時点では、それと同じ、親バカの類である。まだまだ、よちよち歩きだ。将来どうなるかなんてわからない。


初音ミクに対する反発というのは、要するに、あまりの親バカにあきれているのだろう。


親バカの子誉めにうんざりする気持ちはわかるが、ただ、親バカは、別に悪いことばかりではないと思うのだ。
親が子供の無限の可能性を信じてあげるからこそ、子は伸びる。
初音ミクの可能性を、楽観的に信じる人がいることは、初音ミクの発展にとって悪くないだろう。
実際、そこからは、多くのものが生まれている。


願わくば、親バカを暖かい気持ちで見てもらえれば、と、思う。