ジャンルが成長すべきという錯覚

少年漫画の場合

例えば、少年漫画というジャンルがある。ジャンプ、サンデー、マガジン、チャンピオンとかを想起してもらおう。


それらの連載作品は、バトル、恋愛、スポーツで、メインの作品がほとんどカバーできる。小学生、中学生が思い描く、自分がなりたいヒーローの形がそこには追求されている。


それを読む内に、「紙の上でヒーローになったつもりで、意味があるのだろうか? フィクションには、単なる願望充足以外の何かがあってもいいんじゃないか?」と思うようになるのは、ある意味、正しいことだろう。
子供の頃、面白かった作品でも、大人になると、幼稚と思える時はある(さらに一周回って、また面白くなったりするがさておいて)。


そうしたら、どうするか?
少年漫画以外の、恋愛スポーツバトル以外の漫画が、この世にはある。
それを探して読めばいいわけだ。

○○は進化がない

言ってみれば、それだけの単純な話なんだが、時折「ジャンプは進化すべきだ」という人がいる。
少年漫画には限界があるから、その先を、というわけだ。


それは違う。読者は少年漫画に飽きる。読者は少年漫画を卒業する。
でも、あらたな小学生や中学生がいて、彼らは少年漫画を必要としている。


ジャンルとしての少年漫画は、だから、存在し続ける。必要とされ続ける。


少年漫画に進歩があるとしたら、ジャンルとしての少年漫画が人気を得つづけるために、その時代、その時代の小学生、中学生にとって面白いことを追求し続けることだろう。


少年漫画に飽きた世代からすれば、それは「進化がない」ように見えるかもしれないが、それは少年漫画以外のところに求めればいい。

ラノベとか萌えとか

ラノベも、基本は、中高生に向けて、中高生の鬱屈やら妄想やら夢やら希望やらに語りかけるものだ。それらが、中高生の範囲から出ていない、という批判は、上と同じ話だ。


疑似恋愛キモいというのは、自由だが、ラノベは疑似恋愛の先を目指して進化すべきだ、という決めつけもまた、勘違いだ。

地動説と天動説

要するに、「○○というジャンルは進化すべきだ」というのは、基本的に、自分を世界の中心に置いた言い分なのだ。「俺は○○に飽きたから、○○は変わるべきだ」という話でしかない。
ジャンルの必要性、存在は、一人のためにあるわけではない、というわけだ。

ジャンルの停滞と進化

少年漫画は少年に合わせて、ラノベは中高生に合わせて、と、書いたが、どのジャンルも、新たな要素を模索しないとマンネリ化して腐る。


例えば少年漫画でありながら、一般的な少年漫画の枠におさまらない作品、さらには少年漫画のテーマを否定するような作品が現れて、そうした作品が刺激となって、新たなブームを築くことが、これまで何度もあった。


そういう意味で、安直な萌えや、マンネリバトルを、そのまま受け入れる必要はない。飽きたところ、つまらないところは、そのように批判すべきだ。


なんだけど、そうして活性化した少年漫画は、やっぱりバトルとかあるだろうし、活性化したラノベには、やっぱり萌えキャラがいるだろう。
あるいは、バトルや萌えキャラでない何かが後継するとしても、それはやっぱり大人から「ガキっぽくて進歩がない」と言われることだろう。
それはそういうものなのだ。

なぜラノベ家庭には親がいないか

シミュレートしてみるとわかりやすい。

シミュレート

○設定(適当)
主人公:平凡な学生だったが、偶然であったヒロインに助けられ「契約」を結んだ結果、「刻印」を持つようになる。
ヒロイン:人外の存在と戦う定めを負った少女。人外に襲われていた主人公の命を助けるため「契約」を結ぶ。


○親がいない場合
主人公、夜中に起きる。刻印に痛み。触れると血。
主人公「くっ。この痛みは? あの子が危ない。いかなくちゃ!」


○親がいる場合
主人公、夜中に起きる。刻印に痛み。触れると血。
主人公「くっ。この痛みは? あの子が危ない。いかなくちゃ!」
母「ちょっと、こんな夜中に何ごそごそしてんのよ」
主人公「いや、あの……」
母「試験近いでしょ。早く寝なさい。それともお夜食? なんかあったかしらねぇ」
主人公「いや、ちょっと出掛けないと」
母「どこいくつもりよ。馬鹿なこと言ってないで早く寝なさい」
主人公「あの子が危ないんだ。刻印が!」
母「なにそれ、刺青じゃない!? ちょっと、お父さん、おとうさーん」
父「何やってんだ、全く。明日会社あるんだぞ」
母「この子、知らない間に刺青入れて、それで夜中にこっそり出掛けようとするのよ」
父「なに、本当か?……おまえ、ちょっと、そこ座れ」
主人公「……」

両親の機能

おわかりいただけただろうか?


まず、まっとうな親がいたら、息子が危険なとこに出掛けようとしたら止める。息子と話し合って状況を理解したら、警察を呼ぶなり自分達も手伝うなりする。その時点で、「少年少女が活躍する話」ではなくて「大人が頑張る話」になる。


それでなくても両親というのは、これ以上ないくらい日常を想起させるキャラなので、下手に両親を出すと、築き上げた非日常のリアリティが全部ギャグになってしまいかねない。


ラノベの王道は、読者の感情移入対象である少年少女が、大きな事件に立ち向かう話である。故に、少年少女が大人をさしおいて、大きな事件に立ち向かう必然性が要る。
そこにおいて、普通の両親は邪魔になりやすいので、いないことにするのが技法の一つだ。


「非日常の大きな事件」に立ち向かう話以外でも、主人公が色々な行動をする時は、両親の存在は邪魔になりやすい。


もちろん、常にいなくすればいいというわけではなく、やりかた次第で普通に両親を登場させつつ、面白いラノベを書くこともできるだろう。

全ての知識はつながっている

知ってれば知ってるだけ面白いが、だからといって、別に全部つなげる必要はない


或いはエロゲとSFと両方が好きな世代として一言。

昔の世代のグラウンド

http://d.hatena.ne.jp/Lobotomy/20080509/p1

 運動部で例えると、練習する前に基礎体力向上の為に、グラウンドを10周ぐらいするものだと思うのですが、それが今ではグラウンドを100周ぐらいしなくてはいけない状況になってしまった。あるいは、10周するグラウンドの広さが10倍になったでも良いんですけど。 

 こうしてアーカイブが増大してしまった今、岡田先生が言うようなオタクになるのは現在において、ほぼ不可能なはずなのですが、岡田先生はその不可能性には目をつぶって「俺達は出来た! なのに若い奴らが出来ないのは『萌え萌え』言って根性が足りないからだ!」の一点張りです。

いやー、旧世代オタクだって、わりとグラウンド100周状態でしたよ?
SFと名のつくもの全部読んで、ペリー・ローダン全部読んで、あらゆるアニメ特撮を過去現在に至るまでフォローして脚本をフォローして作画をフォローして科学考証をフォローすることが要求され……。


ただまぁ、旧世代オタクは求道者だったから、それが全部できた、なんてことはないです。
時折、化け物はもちろんいましたが、基本は、全部のジャンルを完全に極めてる人はおらず、たいていのオタクは、薄く広く調べつつ自分の専門範囲も持っていたわけです。
そのへんは、今と変わりませんね。


そして、自分の得意範囲にカコつけて「おいおい、こんなことも知らないのか? グラウンド10周!」みたいな先輩が多かった、というだけの話です。良く言うなら、そういう風に全部をカバーできる知識人が、一個の理想としてあったとも言えたでしょう。


グラウンドの広さは、理論上は、過去から現在に向けて、どんどん広くなっているのでしょう。
とはいえ世代ごとに流行廃りがあるわけで、岡田斗司夫の世代でも「オタクなら立川文庫を全部読んで当然!」とか言われることはなかったでしょう。
そういう意味じゃ、メインとなるグラウンドの広さは、昔も今もそんなに変わっていないと思います。


今のオタクのカバーしているグラウンドが昔より狭くなったか、というと、俺は、必ずしもそうは思いません。
「SFをカバーしてないからグラウンドが狭い」っていうのは、単に、その人の了見が狭いだけです。
一方で、「グラウンドは狭くたっていいんだ」みたいな開き直りが、もし、あるとすると、ちょっと悲しくなります。

そのグラウンドは新しいか?

世代交代することで、重要な中心は変わってゆきます。
ある世代にとって重要なものが、別の世代にとってはどうでもいい。
そこにおいて、過度な押しつけは、野暮というものです。
とはいえ、あらゆるジャンルは先行するジャンルに影響を受けていることも否定できません。

 ところが、ある時、上の連中が全く知らないジャンルがオタク界に台頭してきました。

 それがエロゲーです。ここで言うエロゲーというのは、MS-DOS時代とかはすっ飛ばして、『雫』から始まったビジュアルノベル以降のものを指します。

というわけで、すいませんが、上の連中として、うるさいことを言います。
ビジュアルノベルの系譜を語る場合、野々村や河原崎が欠かせないことは既に言われていますね。パラグラフ小説としてはゲームブックも文脈だ。ストーリーで語る場合、雫とオーケンが切り離せないのは言うまでもなく、YU-NOを語るなら各種SF小説がバックボーンとなる。
結局、新ジャンルだからといって、先行ジャンルの知識不要で語っていいか、というと、必ずしもそうではないんですよ。


どんなジャンルも、人間の知識の営みである限り、単独で生まれはしません。

 さて、今、僕の手元に『美少女ゲームの臨界点+1』という、当時のこの手の論壇の精鋭が書いたエロゲーレビュー集らしき本があります。

この本を読んだ俺の感想が、「おまえらグラウンド50周!」だったなぁ。


まぁさておいて。


先行するジャンルについての言及が、必ずあるべきだ、というのは、押しつけです。
一方で、過去は全部切り捨てる!、というのも、悲しい話です。


エロゲとSFを絡めることもできる。エロゲと80年代ジャンプを絡めることもできる。エロゲと滝沢馬琴をからめることもできる。エロゲとディケンズを絡めることもできる。云々かんぬん。


要は、エロゲとSFを絡めて、面白い話、面白いと思わせる話が出来るかどうかが重要なのであって。
それを聞いて、お、そんなに面白いなら、俺もSFを読まなきゃ、とか思わせられるかが重要なのであって。
「SFも読まずにエロゲを語るなバカ!」という人がいたとしたら、それだけ面白い論考を書けない老害の繰り言ではないかと思うのです。
勉強不足!とか言う前に、勉強したくなるような面白さについて語ろうぜ、と、いうわけですね。


一方で、過去との断絶ばかり強調するのも、自分の無知を開き直りにするようで、よろしくない。新しい知識が過去の財産に成り立っていることを知って、謙虚に語ろうという姿勢も必要でしょう。


マチュアなら、それくらいでいいと思います。
※プロのライターならともかく。

実例・吸血鬼物の創作

http://d.hatena.ne.jp/n_euler666/20080308/1204976477
こちらでコメント欄で議論していていい加減、頭が痛くなってきたので、例題として。
月姫」とか「羊のうた」とか忘れて。
「旧家」+「吸血鬼」テーマで、一本、作品を作ろうと考えてみよう。

主人公

まず主人公である。主人公は吸血鬼の事情について詳しいか否か。
デフォルトでは、否、で、ある。
現代伝奇物において、伝奇関連の設定、例えば、吸血鬼が存在する理由を語る場合、結構な量の設定が必要になる。それらの設定を、少しずつ、噛み砕いて読者に説明するには、「何もしらない主人公が徐々に学んでゆく」というのが一番便利である。読者と主人公の知識を同じにすることで、感情移入がたやすくなる。


吸血鬼物に限らず、現代伝奇もので、主人公が、裏世界事情に最初から詳しい話は圧倒的に少ない。
あるとすると、まず、コメディ系。「僕の家族は、化け物一家!」みたいなパターンだ。この場合「そーゆー世界観」ということで、細かい設定をする必要がない。変化球として、コメディ系として始まってストーリーが進むに連れ、シリアス要素が増してくるというタイプがある。
あるいは主人公が探偵などの裏社会との接点役で、事情を知らない依頼人に説明してゆく、というパターンもある。ただ、こうした作品は、主人公にストレートに感情移入する作品でないため、群像劇になりやすい。ラノベ/青少年向け漫画/エロゲの王道は、主人公に感情移入させるタイプである。
対象層を少年に取るなら、「巻き込まれ主人公が徐々に知ってゆく」タイプがメインだろう。


主人公は吸血鬼であるかどうか?
主人公は、何か、特殊な設定を持っているというのが、これまた少年向けの王道である。吸血鬼物であるなら、同系統の力を持っているのが普通だろう。
旧家という設定を生かすなら、主人公は旧家の血を引いており、さっきと合わせて、まだ覚醒していない吸血鬼でもある、とするのが、デフォルトとなるだろう。

旧家と吸血鬼

さて、旧家、家のつながりをメインにするなら、ヒロインは家族であるべきである。母親というのはマニアックなので、姉妹が無難だろう。
さて、旧家のデフォは、代々怪死であり、吸血鬼のデフォは不老不死である。
どっちを取るべきか?
不老不死テーマの場合、長い時を生きた吸血鬼ヒロインを出して、時間や生死観の違いを描くことで面白さを作る。月姫で言うなら、アルクやシエルである。逆に言うと、単に不老不死である、というだけなら、不老不死にする必然はない。


今回の場合、先ほど決めた通り、メインヒロインは姉妹である。実の姉や妹が、実は千歳の吸血鬼、という設定はアリだが、ちょっとトリッキーだろう。
デフォでいくなら、姉妹は、それほど年の差はない。よって、吸血鬼を不老不死にする必然もない。
逆に、旧家で、かつ、代々不老不死とした場合、一族全員が、ずっと昔から生きてることになって、結構面倒になる。父親も祖父も曾祖父も曾曾祖父も全部生きてました……というのは、シリアスに設定に組み込むのは大変だ。
不老不死にもかかわらず、それらが死ぬ必然性があるなら、結局、早死設定と変わらなくなる。

学校

話の全部を旧家の中だけで進めようとすると、重苦しい話になる。
解放された、日常的な部分があったほうがエンターテイメントとしていいし、旧家の暗さ、閉鎖性を描くためにも、日常描写は必要である。
日常描写のデフォが学園であるのは言うまでもないだろう。

ヒロイン

これまでの設定で、旧家=異界ヒロインが存在するのは決定。
人間関係は、一対一だと話が展開しにくい。三角関係以上にするのが基本。
主人公+男ライバル+ヒロインと、主人公+ヒロイン1+ヒロイン2。バトル要素メインなら前者だが、恋愛要素メインなら後者。もちろん、4人にして両方、あるいは、それ以上いれてもいい。
吸血鬼における吸血が性交のメタファーというのを持ち出すまでもなく、姉妹が吸血鬼、という話なら、恋愛要素が相応に重要となる。
というわけで、ヒロインがもう一人必要となる。二人ヒロインの場合、それぞれの性格が対称的なのがデフォ。旧家のお嬢様と対照的なヒロインは、日常性を感じさせる、明るくておっちょこちょいというあたりがこれまたデフォ。出会う場所は、日常の象徴である、主人公の学園が良いだろう。


異界は混ざらないから異界なのである。異界ヒロインと日常ヒロインが、しょっちゅう顔を合わせていると、緊張感がそがれ、コメディ的な展開になる。シリアス展開でいく場合、異界ヒロインと日常ヒロインが、なるべく出会わないのが望ましい。
出会わない方法論としては学年を変える、違う学校にする、(病弱などで)学校に通ってない等がデフォだろう。

結論

「吸血鬼」+「旧家」でデフォの設定を積み重ねてゆくと、「月姫」と「羊のうた」の基本設定ができあがる。逆に言うと、両作品とも、基本設定だけなら、普通の物書きなら、誰でも思いつくもの、ということになる。
両作品が優れているのは、その基本設定からの発展のさせかたであり、その部分においては「月姫」と「羊のうた」は、全く違う。
いや当たり前のことだけど、確認までに。

オリジナリティと新鮮さ・分析の実例

前のエントリ(http://d.hatena.ne.jp/toward-end/20080309/1205027879)は、もともと、こちらの日記を見て、ひっかかったため。
奈須きのこの話
http://d.hatena.ne.jp/n_euler666/20080308/1204976477

月姫と羊の歌

月姫」と「羊の歌」が共有するのは、「吸血鬼」+「旧家」というテーマであり、その必然性である。
旧家=異界、近親婚のタブーであり、異界であるから「化け物」、また近親婚=血のイメージから「吸血鬼」と相性がいい。
エントリー中で、id:n_euler666さんが上げている「一致」は、全て、この必然性の上に乗っているものばかりである。

養子から帰ってくる→旧家とその宿命を異界として描くなら、主人公は外の人間でなくてはいけない。
血の宿命を知らない→外の人間ですから最初は知らない。
姉・妹から教えられる→知らないから教えてもらう必要がある。近親婚のタブーがあるので、近親者女性の必然性。
血の衝動で自我を失う→主人公が吸血鬼のストーリーなら、ほぼ絶対にある展開。
早死にする→吸血鬼に限らず、怪しい旧家の当主ってのは、代々、血脈の呪いで狂い死にするもの。早死にも発狂も近親婚の弊害のイメージ。

という具合。
「吸血鬼」と「旧家」という取り合わせ自体も、「羊の歌」が最初というわけではない。そもそもにして「吸血鬼ドラキュラ」からが、「旧家」+「吸血鬼」であり、「主人公が実は吸血鬼の血を引いていた」というパターンも、無数に作られている。
実際、コメント欄では、「月姫」と「痕」と「羊の歌」が似ていることが指摘されている。
同時期に発売した「羊の歌」と「痕」が似ているのは、それらが同じテーマであるが故に、同じ必然性を共有しているからだ。


以上より、必然性を共有しているからといって、奈須きのこに、オリジナリティがない、という話にはならない。
「旧家」+「吸血鬼」という部分自体には、オリジナリティは少ないかもしれないが、その他の部分を見るべきだろう。

奈須きのこ山田風太郎永野護士郎正宗

山田風太郎は、忍法帳で異能力バトルというジャンルを開拓した。忍者同士のバトルというのは昔からあるが、山田風太郎の場合、各忍者の能力に、科学的、生理的根拠を持たせたところが新しい*1


奈須きのこと山風は似ているか?
異能力バトルという点では、もちろん、似ている。参考にしているところもあるだろう。
ただし、山風とただ、それは一般化のしすぎである。そのレベルで言うなら、この世のありとあらゆる異能力バトルは、みんな山風ということになる。

荒唐無稽な能力が腐るほど出てくるのは”山田風太郎”の血.奈須きのこの作品で一番面白い能力だと思ってる,琥珀翡翠はまったく山田風太郎のキャラ(姉妹の忍者で侍女.唾液を飲ませることで若さを保つことができる能力者).

唾液を呑ませるのと血を呑ませるのが一致してるから、オリジナリティがないって話もない。
「封建的秩序の象徴」として「侍女」の「奉仕」が、血や唾液といった「肉体の提供」になるのは、これもまた必然性というものだ。


同様に、永野護士郎正宗と設定魔であることが似ている、と、言っても、そのレベルで、一般化するなら、細かい設定の作品は全部、永野護士郎正宗ということになる。


先達の影響、「血」を感じるのは、人それぞれだし、私も、個人的に、奈須きのこに山風の血を感じる。
ただし、だからオリジナリティがない、というのは、明らかにおかしい。
逆の話、永野護士郎正宗と山風を同時に感じさせる作風というのは、私はオリジナリティそのものだと思う。

全体の分析

奈須きのこと、永野護士郎正宗山田風太郎の共通点を考えることはできるが、大きく一般化しないと共通点は見いだせない。それをもってオリジナリティがない、ということはできない。
月姫」と「羊の歌」が似ているのは、必然性を共有しているだけである。
月姫」と「痕」も同様に、必然性を共有している。
ただし、これらは同じジャンルで、比較的、近い期間に出た作品であるから、「痕」を遊んだ人が「似ている」あるいは「新鮮みがない」と感じることはあるだろうし、その批判は、妥当性はある。


ただし個人的に言い添えるなら、「雫」「痕」から始まったノベルゲームの伝奇路線が、「To Heart」で大きく舵を切って以来、萌え一色になった市場に「月姫」が現れたのは、新鮮な驚きであって、「似ている」とは感じなかった。

*1:山風の面白さは、こんな単純な要素に還元できるものではない。分析ということでお許し願いたい。

オリジナリティと新鮮さ

様々な作品が「○○のパクり」だとか、あるいは「オリジナリティあふれる」と言われたりする。
二軸で分析してみよう。
「必然性の開拓」と「新鮮さ」だ。
「必然性の開拓」は創作に。
「新鮮さ」は、商品価値に関連する。

必然性の開拓

オリジナリティ=誰もやってなかったことをやる、という理解がある。
だが単に、本当に単に、「他の人がやらないこと」をやるだけでは、なかなかオリジナリティとは認めがたい。いやオリジナリティなのかもしれないが、そういうオリジナリティは忘れ去られる運命にある。
オリジナリティとして認知されるのは、特定の表現が、人の心を大きく揺さぶる場合だ*1


さて、創作というのを、読者の感情や理性、心を動かす手段として捉えた場合、様々な表現は、心を動かすための技術と考えられる。単純化していうなら、例えば、「読者を泣かせる」という目的のために、「難病の女の子がけなげに頑張る」という表現と、それに関連する技術があるわけだ。


「難病の女の子」パターンを分析すると、以下のような必然性がある、と、言えるだろう。
「読者に悲しいという感情を与える」←「悲しさの例としての人の死」←「死を意識させたまま展開を引っ張るための難病(急に交通事故ってのより、じわじわ描ける)」←「死んで欲しくない人としての女の子(齢97のおじいちゃんよりは、少女のほうがウケをとりやすい)」。


もちろん「難病の女の子」は使い古された表現だが、考えてみれば、歴史のどこかで最初にこれをやった人がいるはずなわけだ。オリジナル、すなわち「起源のもの」である。

必然性=踏襲

さてさて、「難病の女の子」ストーリーには、さきほど書いたように、そうなるべくした必然性がある。
逆に言うと、他の人だって、独立に思いつく可能性がある。また、要素の一個一個に必然性がある故に、無意味に、ずらすとつまらない作品になる。


「闘病もの」を描きたいとしたら「病気の女の子」がデフォなわけだ。深く考えずに、単に「女の子じゃよくあるから、青年にしよう」とかやるのは、作品をつまらなくする。老若男女が感情移入しやすいのが「女の子」なわけで、そういう必然性があって含まれている要素なのだから、必然性を無視して取り替えたら質が落ちるわけだ*2


つまり、一度、開拓された必然性は、後発に踏襲される。
単に人気作にあやかろうとして何も考えずにパクる場合もあるだろうが、「面白い話」を作ろうとした場合、そうした必然性を踏襲するのが重要だからだ。
逆に言うと、だからこそ、「誰も知らなかった新しい必然性」を開拓することは、素晴らしいのだ。

必然性=融合・継承

必然性を無視した作品は、基本的につまらない。だから必然性は踏襲される。一方で、本当に必然性を踏襲するだけで、そっくり同じ話ばかりになれば、それは創作の自殺である。


このジレンマを解決するために、創作者は必然性を組み合わせる。つまり、要素は有限だが、組み合わせは無限にある、というわけだ。


例えば、思春期の少年が生きる意味に悩む、という「思春期アイデンティティ」というモチーフがある。
これを「難病少女」と組み合わせて、「少女の闘病を見て、自分の生きる意味に思いを馳せる思春期の青年」とかするわけだ。もちろん、この組み合わせは、基本中の基本なわけだが。


要素も、単に並べただけでは、意味がない。組み合わせる時には必然性が存在する。
「難病少女」と「思春期アイデンティティ」は「生死の意味の考察」という必然性がある。「難病少女」と「プロジェクトX・新工場開発に賭けた男達の物語」も、例えば、「仕事と家庭の両立」という必然性で、つながるだろう。


結局、「面白い組み合わせ」というのも「必然性の開拓」なわけだ。逆に、どんな要素であっても、さらに一般的な要素の組み合わせとして記述できるわけだから(「難病少女」=「少女」+「死」+「病」)、結局のところ、創作およびオリジナリティというのは全て「必然性の開拓」であると言える。


繰り返す。オリジナリティというのは、無からの要素創造ではない。それは、「必然性の開拓」なのだ。

知識と一般化

さてさて、オリジナリティとは「必然性の開拓」と書いた。では、どこからが「開拓」でどこまでが「踏襲」なのだろうか?


これに関して、はっきりした単純な答えはない。
まず知識の問題がある。
「AとBの要素をつなぐ、Cという必然性」を発見した、と、しよう。過去に、そういう作品が全くなかったかどうか、というのは、検証が難しい。
よくある話で、若い世代が「なんて素晴らしいオリジナリティ!」と言ってる向こうで、年喰った連中が「○○と同じパターンだな」とか嘯いていたりする。


次に、一般化の問題がある。
例えば、「難病少女」について考えてみよう。
細かく言えば、例えば少女の年齢が違えば、ストーリーは変化する。
赤ん坊の場合、幼児の場合、小学生の場合、中学生の場合、高校生の場合。みんな、それぞれ、違う必然性があり、それによって違うドラマが生まれるだろう。もちろん、年齢以外にも数限りない要素がある。
細かく見れば、これらを全部「違う必然性」として見なすこともできる。
一方で、一般化すれば、これは「少女」という必然性のバリエーションである。


よく言われる話だが、「ウェストサイド物語」は「ロミオとジュリエット」の現代版。「プリティ・ウーマン」は「マイ・フェア・レディ」の翻案である。これらは、十分に一般化すれば、同じ要素で構成されている。一方で、それぞれ独自のオリジナリティがある。
舞台の時代設定を変えることで、違う作品が生まれた例である。時代設定以外にも、全く違う設定や、ジャンルから要素を持ってくるのもよく使われる手法である。一度、一般化して分解し、違うジャンルで、再び組み直すことで、普通に見れば全く違う作品に仕上がることがある。


それをオリジナリティがない、と、言っていくと、この世にオリジナリティというのは無くなる。


どんな作品も十分に一般化すれば、必ず、何かの踏襲である、と言い替えることもできよう。
逆に、どんな作品も十分に細かく見れば、(完全なコピペでない限り)必ずオリジナルの部分がある。


ま、そのへんは、主観も大きいけど、十分に主観が一致するところで、無視できない客観性というのもある。創作的な評価を心がけた上で、みんなが「新しい」と思う作品はあり、また、みんなが「いやいやこれはパクりでしょ」という作品もある、ということで一つ。

読者が批判するパクり、作家が悩むオリジナリティ

多くの読者は、ある作品と別の作品が、必然性を共有している、というだけで、「パクり」と批判することが多い。これは間違いだ。なぜなら、必然性の共有自体が否定されたら、物語というのは作りようがないからだ。なんでも奇をてらえばいいというものではないのだ。


たいていの場合、そういう批判は「AはBのパクり」というが、BもAも同じ必然性を共有しているに過ぎず、系譜で言うなら、もっと昔の作品にいくらでも遡れることが多い。
ある作品にオリジナリティがないとしたら、その全部が、既存の必然性で出来ている、という話をしなければいけない。たまたま、必然性の一部が他の作品とかぶっている、というのは、それこそ必然性であり、パクりではない。



一方で、作家は作家で、オリジナリティに悩むことがある。
先ほど書いたとおり、必然性の開拓こそが、オリジナリティである。だが、どこまでが踏襲でおこまでが開拓かは、主観的なものである。
駆け出しの作家は「これとこれを組み合わせるなんて、俺、天才じゃね!?」とよく錯覚する(笑)。だがより一般化して要素と必然性を分析すれば、それは新しいものでもなんでもない。
逆に、良い作家ほど、必然性の分析が出来ているから、真に新鮮な組み合わせを見つけても「これとこれを組み合わせるなんて当たり前の話で、オリジナルでもなんでもない」と悩みがちだったりする。
錯覚でもなんでもいいから、自分の才能を信じ、物を作り続けられることが本当は望ましい。
だが、さきほどのパクり非難も含めて、本当に才能のある作家が、萎縮してしまう、ということもある。

新鮮さと商品価値

とはいえ「AはBのパクり」という批判にも、一面の価値はある。Aを見た時、Bにそっくり、という印象を受けたなら、Aの評価が下がるのは仕方がない。
創作という観点からすれば、それは評価としては中立でないかもしれないが、そもそも受け手は別に中立である必要も、創作の立場に立つ必要もない。
どういう理由であろうが、つまらんものはつまらんのだし、その感想は重要なのだ。


ただ、これを「パクり」というから、問題になるのである。「新鮮さ」と考えたら、どうだろうか?
新鮮さ、あるいは目新しさである。
カレーを食べた直後に、またカレーが出てきたら、うまいとは思わないだろう。料理を食べる順番は重要だ。一方でこの場合、「連続でカレーを食べたらうんざりした」というのは、それぞれのカレーの出来の良さとは違う次元の評価であることも押さえる必要がある。
「和風カレーのあとにタイカレーが来て、うんざりした」という感想は意味がある。
でも「タイカレーは和風カレーのパクりだ! スパイス使ってるし辛いし!」というのは、まぁ、的はずれだろう。


もちろんマーケティングレベルで、特定の作品が売れてる時に、二匹目の泥鰌を狙った作品とかは、そういう批判もありうる。「最近、どこいってもカレーしか売ってないじゃん!」というわけだ。
一方で、「俺は、たまたま昨日カレーを食べたんだが、今日食べたのもカレーだった」というのは(繰り返すが感想としては意味があるが)、創作のレベルでは対処しにくい。そゆこともあるよね、としか言いようがない。


逆もある。創作的に見るとオリジナリティは少なめだが、目新しいと受け止められる場合はある。あるジャンルの定番が、それを知らない別の層に受けたり、昔流行ったものが忘れられた後に、同じパターンのものが現れて人気を博したりする*3
それが良い悪いではなくて、特にプロとして物を作る場合、例えばそれが偶然の一致だろうと創作的な必然だろうと「新鮮さ」が無くて受けなければ負けであり、逆に、今の客に何が「新鮮」なのかというのを押さえるのは必須の技能だ。
「創作的オリジナリティ」と「市場における新鮮さ」は、違う軸であるという話で、どっちが上下という話ではない。

てなわけで結論

オリジナリティとは、必然性の開拓である。
必然性の共有は、パクりではない。
感想としての「目新しさがない」というのと、創作上の「パクりである」というのは別物である。

*1:より大勢の心を大きく揺さぶる場合もあれば、特定の層にピンポイントでヒットする場合もある。この議論では、両者を区別しない。

*2:逆に必然性を意識して要素を変えるのは創作の基本である。例えば、女性が対象なので「青年」にするとか、人生の含蓄を描きたいから「お爺ちゃん」にするとか。いずれにせよ、極端に単純化した話をしてるのでツッコミはご勘弁を。本当に難病物の作品を作るとしたら、もっともっとたくさんの要素を分析する必要がある

*3:また先にも書いたが、昔の物をリファインしたり、別のジャンルから持ってくる、というのも、それはそれで必然性の開拓であり、オリジナリティである